はじめに
房総の歴史とは一体どのようなものだったのだろうか。そんな単純な興味から、時間さえあれば房総の村々や港町をよく歩いて見てまわりました。
歴史を知ることは自分たちの現在の立ち位置、座標軸のようなものを知る事にもなり、それは新たな視点、世界観がひらけると思ったからです。
「里見」(さとみ)とはとてもよい響きだと思います。
ゆっくりと里を見渡せば、山稜にそそぐ陽光と尾根につづく樹々の緑の濃さ、そしてその匂い、咲き乱れる花々と集まる虫の声、海の青さと透明さ、岩礁に打ち寄せる波濤. . .内的生命力にあふれる大地と共に人は住み生きて来たことに気付きます。
また普段見なれた何気ない風景を丹念に見ていくと何故そこに寺があるのか、山城があるのか、その地名は?ただそこに「ある」では済まされない歴史の積み重ねの上に私達は生きていることにも気付かされます。
戦国期の房総では、里見氏が縦横に活躍していました。近世大名として生き残るすんでのところで国替えの憂き目にあい滅び400年。
そんな昔のことでありながらも里見伝承はゆかりの地に現在も生きていました。
時間とともに変化し確認しにくい伝承の世界はその存在さえなかなか知る機会も少なくきっとすぐに忘れ去られてしまうでしょう。
かけがえのないはずの伝承は調査対象として比較研究や歴史的研究に類する方法として立論が困難なうえ評価も定まらない領域です。
それにもかかわらず、決して無視することはできない土地とともにあるその実感をいわゆるアカデミズム史学とは別の視点で原理にとらわれず写し取ることができれば、自分だけの里見氏が描けるのではないかとそんな発想を持ちました。
写真は決して歴史通の人だけに見てもらいたい訳ではなく、あらゆることに関心のある方々に見てもらいたいと思っています。
私達は万物において一体どのような座標軸に生きているのか、どうして生きるべきかその存在指標のようなものを何か掴むことが出来ればと、写真を撮り続けています。
つまるところ過去を知ることは現在(いま)この世界に生きている不思議さにより深く対峙することだと思っています。